世界中で愛されているロックバンド、クイーン。
映画「ボヘミアン・ラプソディー」の影響もあり、改めてクイーンは世界のクイーンなんだということを再確認しました。
当時からクイーンを聞いてきた人も、若い世代からも愛されるクイーン、ここではクイーンのデビューからブレイク、フレディー・マーキュリーの死までの歴史を追っていきます。
クイーンの歴史〜1970年代〜
デビュー〜ブレイク。クイーンが頂点にまで上り詰めた1970年代の歴史を追っていきます。
クイーンの歴史<クイーンデビュー>
スマイルというバンドで学生時代に活動していたブライアン・メイとロジャー・テイラーがバンドを一新させることを決意。
ブライアンとロジャーの友人だったフレディー・マーキュリーがボーカリストとして加入し、クイーンというバンド名を提案しました。
ベーシストは複数回の入れ替わりの末にジョン・ディーコンが加わり、1971年にはフレディー・マーキュリー、ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンというおなじみのメンバーがそろいます。
その年に録音されたデモテープがトライデント・オーディオ・プロダクションズの目にとまり、クイーンは1972年に契約を結びました。
クイーンの歴史<苦戦を強いられたデビューアルバム>
翌年にはデビューシングル「炎のロックンロール」をリリースします。しかしヒットはせず。
1973年にはクイーンのデビューアルバムとなる「戦慄の王女」がリリースされますが、これもまた注目されることはありませんでした。
[itemlink post_id=”15895″]イエスと比べられたり、グラムロックの残りかすと言われたり、メディアや評論家からは酷い言われようだったようです。
クイーンの歴史<注目を浴びはじめたクイーン>
ところが、モット・ザ・フープルのツアーで前座をつとめていたところ、音楽雑誌がクイーンを評価し始めました。
1974年2月にはデヴィッド・ボウイがキャンセルしたことにより歌番組への出演が決定。
「輝ける7つの海」を披露しました。
テレビの影響は絶大で、クイーンの知名度は上昇し2ndアルバムである「クイーンⅡ」は全英5位を記録するヒット。
[itemlink post_id=”6406″]しかし、イギリスの音楽メディアの評価は依然変わらず。クイーンには独自性が足りないと批判されました。
クイーンの歴史<転機となった「キラー・クイーン」>
シングル「キラー・クイーン」がリリースされると、これが全英2位まで上り詰めてようやく音楽メディからの評価が得られるようになりました。
次のアルバムとなる「シアー・ハート・アタック」もヒット。クイーンは本格的にブレイク。
そしてフレディー・マーキュリーは派手で独特な存在感を放つボーカリストとして注目されるように。
ビートルズでもなく、レッド・ツェッペリンでもなく、ピンク・フロイドでもない・・・ほかのどんなバンドにもたとえがたいボーカリストとして。
クイーンの歴史<「ボヘミアン・ラプソディー」のヒット>
1975年、トライデント・オーディオ・プロダクションズと契約解除し、新たにエルトン・ジョンのマネージャーだったジョン・リードと契約。
シングル「ボヘミアン・ラプソディー」を同年リリースします。
フレディー・マーキュリーによると、「ボヘミアン・ラプソディー」は3つの曲を1つにしたもので、売るためには1つにしたのにまた3に分けろとレコード会社から言われるし、ラジオでも嫌がられるしでリスクは大きかったとのこと。
しかし懸念をよそに「ボヘミアン・ラプソディー」は世紀の大ヒット。
そしてその後にリリースした「オペラ座の夜」は全英1位、全米4位の世界的なヒットを記録しました。
[itemlink post_id=”5182″]「ボヘミアン・ラプソディー」の歌詞についてはさまざまな解釈がされていますが、結局のところフレディ本人にしかわかりませんね。
クイーンの歴史<「パンク時代、クイーンの状況は厳しく」>
70年代後半にもなるとパンクロックブームが到来し、音楽メディアのクイーンに対する姿勢はやや厳しくなっていきました。
ベトナム戦争やオイルショックなど暗い時代ということもあり、クイーンの豪遊生活に厳しい反応が示されたのです。
フレディー・マーキュリー自身、この時期は苦しかったと後に振り返っています。
クイーンの歴史<「ウィ・ウィル・ロック・ユー」と「伝説のチャンピオン」のヒット>
しかし、1977年に発表した「ウィ・ウィル・ロック・ユー」と「伝説のチャンピオン」がヒットし、再びクイーンが注目を浴びることに。
そしてリリースした「世界に捧ぐ」は世界的に大ヒット。
[itemlink post_id=”4866″]勢いに乗るクイーン、続く「ジャズ」や「ザ・ゲーム」もヒット作品を生み出していきます。
クイーンの歴史〜1980年代〜
クイーンにとって激動の1980年代に迫ります。
クイーンの歴史<変化と低迷の80年代>
80年代といえば、いわゆるニュー・ウェイブと呼ばれるムーヴメントが起きた時代。
これまでのロックは影を潜め、ロックにほかのジャンルをかけ合わせる形が流行しました。
たとえば、ニュー・オーダーのように電子音・ディスコを取り入れたりとか、ポリスのようにレゲエを取り入れたりとか。
関連記事>>【ロック史】80年代、ニュー・ウェイブシーンに迫る
そんな中でクイーンが挑戦したのは、映画「フラッシュ・ゴードン」のサウンドトラックでした。
そして80年代といえば、デヴィッド・ボウイとの共作である「アンダー・プレッシャー」もリリースされましたね。
「アンダー・プレッシャー」は大ヒットしましたが、収録アルバムである「ホット・スペース」は賛否両論。
賛否両論あり、やはりクイーンらしくやろうとして再び世界を驚かせたのが「レディオガ・ガ」でした。
難しいことはせず、大勢の人の心をつかむような曲を作ろうとしたこの曲はメロディも親しみやすく、ラジオでもよくかかり、時代にもマッチしていて受けたのです。
「レディオガ・ガ」が収録されたアルバム「ザ・ワークス」のセールスは前作を上回りました。
その後はメンバーそれぞれがソロ活動に勤しむように。
クイーンの歴史<ライヴ・エイドでの復活劇>
メンバーのソロ活動を経て再結集したクイーンでしたが、南アフリカのサンシティで行ったライブが議論を呼びました。
アパルトヘイト政策に苦しむ地で、そこでライブをすること自体が、メンバーにそのような意図がなかったとはいえ政策に賛成する行為だと受け取られてしまうのでした。
クイーンの評判は低下。
クイーンはこのときライブを行ったことを後悔したそうです。
そんな中で出演することが決まったのがライヴ・エイドでした。
すでに”過去のバンド”だと思われていたクイーンでしたが、世界中を熱狂させ、クイーンが唯一無二の存在感を持つバンドなんだということを見せつけたのでした。
このときの様子をおさめたDVDは本当に胸が熱くなって最高です。私もよく見返します。
[itemlink post_id=”6041″]華麗なる復活劇を見せたクイーンが出した「カインド・オブ・マジック」はヒットを記録しました。
クイーンの歴史<ライヴ・エイドでの復活劇>
ところが1987年、フレディー・マーキュリーの病気が発覚。その後はライブが行われることはありませんでした。
1989年、アルバム「ザ・ミラクル」をリリースしヒットしますがツアーは行わず。
そして実質クイーン最後のアルバムとなる「イニュエンドウ 」をリリース後にフレディー・マーキュリーは亡くなりました。
1曲目の「イニュエンドウ」は「ボヘミアン・ラプソディー」を彷彿させるコンセプトが魅力的。
最後期のアルバムということもあって名前はそこまで挙がりませんが、最後までやりたいことをやってやるというフレディの力強い意志が感じられます。
「輝ける日々」は、フレディの状況を考えれば切なくもありますがとても美しい曲。フレディの楽しかった音楽人生、ファンへの感謝が込められていると思いました。
クイーンの歴史〜フレディ死後〜
クイーンがフレディの亡き後にリリースしたのが「メイド・イン・ヘヴン」。
[itemlink post_id=”5812″]私はこの「メイド・イン・ヘヴン」がすごく好きで。
フレディが亡くなった後なので、やはり切ない気持ちはこみ上げてきます。
まだ生きたかっただろうなという無念さ、迫りくる死への絶望、でもそんな状況だからこそ感謝の気持ちや生の美しさが見える・・・全部想像でしかないですが、あのころのフレディだからこそ伝えたい思いがあったと思うんですよね。
そういう複雑な感情が湧き出てくるのが「メイド・イン・ヘヴン」。
フレディ死後のアルバムですが、私はとても大好きです。
クイーンの歴史まとめ
最近ではクイーンの自伝映画「ボヘミアン・ラプソディー」が世界を熱狂させたこともあり、クイーンって本当に世界中で愛されているんだなと再認識しました。
天才的な発想力や表現力、そしてフレディー・マーキュリーの唯一無二の存在・・・クイーンのようなバンドは後にも先にも出てこないだろうなと感じますね。
だからこそ、クイーンの、フレディー・マーキュリーの魅力に世界が虜になるんだと思います。